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--- はじめに お読み下さい ---
古来、日本には二つの天皇家が存在した。日本國天皇家と九州神武天皇家である。日本國天皇家が本流、九州神武天皇家が分流であった。私たちがよく聞く神武天皇が九州天皇家の始祖である。古事記・日本書紀に記録された神武の東征地は関西ではない。九州東北部である。紀元前一世紀半ば、当時、吉備と呼ばれた弥生集落が存在した下関市彦島から出立した神武は宇陀(小倉南区)、伊勢(行橋市)を転戦し、最後に、熊襲の王支配の倭國に侵入した。この倭國とは香春町である。神武は「畝傍の山」と呼ばれていた香春岳の東南の丘に帝宅(畝火白檮原宮)を構え、神武国家の樹立を宣言した。香春は四方を緑に囲まれた山間の美しい町である。神武天皇家の人々はこの国を「やまと」と呼んだ。「やまと」とは「山戸」であろう。水辺の集落を「みなと(水戸)」と呼び、山間の集落を「やまと(山戸)」と呼んだのである。以来、九州天皇家は九州東北部(彦島・小倉北区・小倉南区・行橋市・香春町・朝倉市秋月等)を統治下に置いてきた。神武を引き継いだ綏靖・崇神・景行・応神・仁徳・雄略等々はみな九州天皇家の天皇である。香春町の伝神武皇后の墓、小倉南区の景行帝踏石、彦島八幡神社の仲哀弓掛け松などの史跡はその証左である。
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奈良に存在した天皇家は「阿米」を始祖とする天皇家である。「阿米」は古事記では「天之御中主神」という名の最古の神として登場する。この神(王)が現れた時は弥生、場所は下関市彦島である。「天之御中主命」が占領統治した彦島老山は、「高天原」と呼ばれ、その後、神武九州天皇家の遠祖「天照大神」一族が統治した。日本國天皇家も九州天皇家も祖を遡っていけば共通の始祖「阿米」に行き着く。「阿米」は彦島を占領統治した後、おそらく長い年月を経て、奈良に辿り着き、国を興した。この国は隋、唐から「日本國」と呼ばれていた。大阪南河内に存在する多数の古墳はこの天皇家の王墓であるが、これらの古墳に埋葬された天皇の名前もその治世の記録も全く伝わっていない。日本國天皇家の中で、はっきりと文書記録が残るのは6世紀末の「上宮法皇」である。法隆寺釈迦三尊光背銘にその記録がある。「上宮法皇」は仏法を興し、その治世の元号を「法興」と定めた。「法興」年間は591年から622年である。「法皇」とは「仏法に帰依した天皇」の意である。「上宮法皇」は日本國天皇として十七条憲法を制定し、法興寺を建立した。「上宮法皇」は今の世に「聖徳太子」として伝わるが、推古朝摂政ではなく、天皇である。「日没するところの天子」として隋煬帝に書簡を送り、「阿毎」と名乗った「倭王」とはこの「上宮法皇」である。「上宮法皇」は622年2月22日に亡くなり、大阪府太子町叡福寺に母、妻と共に眠っている。「上宮法皇」ゆかりの四天王寺、叡福寺等は今も毎年旧暦2月22日に命日法要を行っている。
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壬申の乱が672年勃発する。その頃、日本國天智天皇と朝廷は太宰府に出向していた。日本國天皇家は662年白村江会戦で唐に敗れ、博多には唐の司令官と軍が駐留していた。太宰府でその戦後処理の外交交渉が行われていたのである。日本國天皇はその交渉結果を見ぬまま、滋賀県近江宮で亡くなった。その直後、九州天皇家、大海人皇子(天武天皇)は九州天皇家の伊勢(行橋市)で蜂起し、日本國天皇家に反乱した。日本國朝廷太政大臣、大友王と大海人皇子は九州天皇家の近江(小倉南区曽根)を主戦場として相戦った。勝利したのは「東国(太宰府から見て東の国、苅田・行橋市)」の豪族を味方につけた大海人皇子である。大海人皇子は九州天皇家の飛鳥(田川市)で即位し、その後、太宰府に入って全国を統治した。天武紀にたびたび登場する「京」「京師」とは太宰府のことで、「大極殿」とは太宰府大極殿である。また天武紀に「筑紫に饗たまふ」という記事がたびたび登場するのも天武が太宰府に居た故である。壬申の乱とは日本國天皇家から九州天皇家へ覇権が移行した内乱であった。
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天武天皇が686年太宰府大極殿で亡くなった。3年後の689年に、皇太子草壁皇子も亡くなってしまう。ここで、皇后持統は「父の国、日本國に戻ろう」と決断する。持統は高市皇子をはじめ九州天皇家一族を引きつれ太宰府を去り、瀬戸内海を横断、奈良に戻り、690年元旦藤原京大極殿で即位した。ここに九州天皇家と日本國天皇家を統合した近畿天皇家というべき新しい王朝が始まる。以来、この統一王朝が日本の支配者となる。7世紀は、日本國天皇家⇒九州天皇家⇒近畿天皇家と国権が変遷した激動の時代だった。持統近畿天皇家誕生の陰で日本國天皇家と九州天皇家が姿を消した。しかし幸運にもその記憶が残された。九州天皇家の口伝は古事記として書記化され、九州天皇家の倭歌は万葉集として編纂された。そして元明は九州天皇家各國の風俗土地柄を風土記として記録するよう命じた。現在に伝わる風土記の「伊豫」「播磨」「伊勢」「出雲」「常陸國」等は全て九州天皇家の国々である。一方、日本國天皇家の記憶はわずか日本書紀に一部残されたのみであった。
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万葉集(一巻雑歌・二巻相聞挽歌)は持統遷都によって歴史から消えゆく九州天皇家への鎮魂歌集である。編者は九州天皇家出身者で、第一巻を九州天皇家泊瀬天皇の「やまと」賛歌で始め、元明の代の天武の皇子長皇子の宴の歌で閉じた。第二巻は九州天皇家仁徳皇后の相聞歌で始め、元明の代に亡くなった天武の皇子志貴親王への「聞けば哭のみし泣かゆ 語れば心そ痛き」と哀切な挽歌で締めくくった。彼にとって志貴親王の死は九州天皇家の終焉であった。万葉の哀しい主旋律を奏でた柿本人麿は689年持統が奈良に戻った時、なぜか九州に残され、消えゆく九州天皇家への哀悼歌を数多く残した。人麿の歌舞台はすべて九州である。人麿は持統の代の末に九州天皇家の「讃岐(彦島)」に流され、文武の代に故郷「石見」に流され、そこで生涯を閉じた。人麿故郷「石見」は九州天皇家の「石見」で島根県ではない。「石見(いわみ)」とは「岩海」の意で、「淡海」と対である。九州天皇家の「淡海」は小倉南区曽根の干潟の淡い海をさし、九州天皇家の「石見(岩海)」はその隣、苅田町の荒磯の海(周防灘)をさす。人麿には「讃岐」から「石見」へ流される陸路、立ち寄った「淡海」で作った歌がある。
淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 情も思奴(しぬ)に 古思ほゆ
「思奴」は「品」で太陽を意味する。「古(いにしへ)」とは「過ぎ去った代」の意味で、人麿歌では九州天皇家持統の代をさす。小倉南区の干潟には夕方になると満ち潮が押し寄せる。夕波である。干潟の千鳥が鳴き騒ぐ。その鳴き声を聴くと、心も輝いて過ぎ去った九州天皇家持統の代が思い出されることだ。ここ淡海には九州天皇家の名高い「近江大津宮」が存在した。持統が草壁皇子を出産した九州天皇家随一の華やかな水の宮だった。千鳥は今も昔と変わりなく鳴いているが、廃墟の「大津宮」には誰の声もしない。過去と現在、心象と実景、栄華と廃墟、喧噪と静寂、これらの対照の中に、流刑の我が身と消えゆく九州天皇家、二つの悲しみが投影され、この歌を名歌にしている。
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日本書紀は持統近畿天皇家によって持統皇位正当性の主張目的で編纂された政治的な史書である。九州天皇家の歴史口伝を記録した古事記とは性格が根本的に異なる。持統は日本國天皇家から見れば国権の簒奪者である。その持統の皇位継承の正当化のため日本書紀は九州天皇家・日本國天皇家・天武九州天皇家・持統近畿天皇家の四重層の特異な歴史書として編成された。巻1〜巻16は九州天皇家、巻17〜巻27は日本國天皇家、巻28〜巻29は天武九州天皇家、巻30は持統近畿天皇家の代の記事記録である。巻11(仁徳天皇)は難波高津宮(小倉北区)に居た九州天皇家聖帝仁徳の治世の記事記録である。巻27(天智天皇)は白村江で唐と戦った日本國天皇家天智の内政・外交の記事記録である。巻29(天武天皇)は壬申の乱の勝利によって九州天皇家の天皇として初めて日本の天皇となった天武の太宰府における治世の記事記録である。最終巻30(持統天皇)は前半は九州における持統の治世の記録、持統4年以降の後半は奈良に戻って即位した持統の政治改革・宗教改革の記事記録である。この編纂実務を担ったのは九州天皇家出身の史官であった。当然、彼らの手元には古事記をはじめ九州天皇家の史料は豊富にあったが、日本國天皇家の史料はない。いきおい海外史料に頼らざるを得なかったがそれでも十分ではない。巻17から巻27までの日本國天皇紀には編年に誤りが多く、天皇紀そのものが間違っているのはこれが理由である。
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古代九州に弥生文明を持ち込んだ弥生人は、「姫氏」である。「姫氏」とは中国春秋時代の呉の王家一族である。王は代々「姫(キ)」と名乗った。紀元前473年、呉の滅亡後、人々は王「忌」に率いられて黒潮に乗り、九州菊池郡に上陸、「忌国」を建設した。その後、紀元前223年、同じように、祖国楚の滅亡後、九州に渡来してきた「熊氏」もまた「熊襲」の国を建設した。これらの国が「倭国」である。3世紀には有明沿岸に多くの弥生国家が成立していた。『魏志』「倭人伝」が「邪馬壱国」として紹介した国は、熊本市に存在した女王国である。女王卑弥呼が支配した国は「忌氏」と「熊氏」の連合国で、みやま市から八代市に及ぶ広大な倭国連合であった。姫氏2代目の王、「順」の時、「委奴國」に移った。この「委奴國」が佐賀県吉野ヶ里遺跡である。ここから、「姫氏」の王たちは全国各地に兵を進め、国を建設した。「姫氏」9代の王「阿米(あ・まい)」が作った弥生国家の一つが、「高天原」である。「天(あま)」とは「天上」の意味ではなく、「阿米(あ・まい)」の訛である。「姫氏」と「熊氏」、彼らが古代九州弥生文明を築いた日本人だった。
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